「ムハンマド」の版間の差分

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2014年5月12日 (月) 05:53時点における最新版

ムハンマド

マホメットはかつて私の青春の血潮を妖しく湧き立たせた異常な人物だ。人生の最も華やかなるべき一時期を私は彼とともに過ごした。彼の面影は至るところ私についてまわって片時も私を放さなかった。 ……しかも精神的世界の英雄を瞻望して止まなかった当時の私の心には、覇気満々たるこのマホメットという人物の魁偉な風貌が堪え難いばかりの魅惑となって迫っていたのだった。 ……髣髴と眼底に浮かんで来るこの熱情的な沙漠の児の面影とともに、青春の日の我れと我が身の様々な姿が奇怪な幻想のように次々と忘却の淵から現れて来て、自らにして胸の若やぐのを禁ずることができない。──井筒俊彦マホメット」p21-22

名前

 沙漠の荒野で暮らすベドウィンは、その苛酷な環境を生き抜くために集団生活を余儀なくされた。それゆえに、なによりも血統、家系を重視する風習が生まれ、自分の家系を誇りに思う気持ちは、その姓名表示にも表れている。

ムハンマド(ビン)アブドッラー(ビン)アブドルムッタリブ(ビン)ハーシム(ビン)アブドムナーフ(ビン)クサイイ(ビン)キラーブ(ビン)ムッラ(ビン)カアブ(ビン)ラウイ(ビン)ガーリブ(ビン)フィフル(中略)アドナーン(中略)イスマーイール(ビン)イブラーヒーム(中略)アーダム──預言者ムハンマドp48

 中略を入れてさえ長ったらしいが、これがムハンマドの正式な名前だ。(ビンbin)は息子の意、娘の場合は(ビントbint)となる。本人の父親の名前、その父親の名前、そのまた父親の名前と、連綿と父祖を遡って書き連ねるので、名前そのものが家系を示す。その始祖がアーダムとなっているあたり、イスマーイール以降はアラブ人全員が、同じ先祖を持つことになるのだろうか。

 ちなみに十一代目「フィフル」とは、クライシュの別名であり、クライシュの語源は「貯める、稼ぐ」で、現在のアラブ諸国の通貨「クルシュ」と同じ語源だという。

 現在では、「本人、父、祖父」のあとに部族名、出身地、職業名、曾祖父の名等のどれかを表示し、四つで区切るのが一般的になっている。

●イスマーイール
イスマーイールは、イブラーヒーム(アブラハム)の妻サラが、自分に子どもができないのを苦にして女奴隷のハガルに生ませた子ども。しかしイブラーヒームの跡継ぎを身ごもって態度が大きくなったハガルは、一旦はサラから追い出される。途方に暮れるハガルのもとに天使が現れ、「その子をイスマーイールと名づけよ。彼は乱暴者になる」と預言し、ハガルに対して、サラに従順に仕えるよう諭した。ここで乱暴者との烙印を押されたイスマーイールこそがアラブ人の祖先となるが、イスラーム側は頓着しない。そんなことよりも、イブラーヒームとイスマーイールの二人がカアバ聖殿を建てたとすることによって、イスラームがユダヤ教よりも長い伝統を持つと誇示できることが大事なのである。
●カアバ聖殿
イスラームの聖地マッカは、巡礼の地として有名だが、この地が古くより繁栄したのはカアバ聖殿のおかげだった。西暦二世紀に編纂された「プトレマイオス地理書」には、「マクラバ」の名でその存在が記されている。神殿建立には諸説あるが、イスラームにおいては前述したようにイブラーヒームがその息子とともに建てたことになっており、クルアーンにも明記されている。

人々のために建てられた最初の神殿は、マッカにあるもので、万世のために祝福と導きを持つ。その内部にはいくつかの明白な御徴があり、イブラーヒームの御立処がある。だれでもそこへ入った者には安全が保証される。神殿への巡礼は、旅する能力を持つ者には、人間としてアッラーに対する義務である──クルアーン第三章「イムラーン家族」96、97節

伯父、アブー・ターリブ

 ムハンマドを語るとき、その伯父であるアブー・ターリブの存在は欠かせないものとなる。ムハンマドは多くの人々の支援を得てイスラームという一大宗派を築きあげたが、その支援者の一人として伯父のアブー・ターリブは、誰よりも偉大で誇り高い人物であったと言えはしないか。

 まず、ムハンマドは孤児であった。父アブドッラーは、ムハンマドがまだ母親の腹の中にいたときに旅先で死亡。続いて母アーミナも、ムハンマドが6歳のときにヤスリブにて病に斃れる。このころにはまだ有力者として名を知られていたハーシム家の長、ムハンマドの祖父アブドルムッタリブが、孤児となったムハンマドの保護者となった。

●象の年
ムハンマドが生まれたと見られる西暦570年頃、エチオピア軍が紅海を越え、象に乗ってマッカに攻め入ってきた。はじめて見る象と、その動物をあやつる軍隊に、マッカの人々はよほど驚いたのだろう。この年を象の年と呼んでいる。その際にムハンマドの祖父アブドルムッタリブは、クライシュ族の指導者としてエチオピア軍との交渉に当たっている。幸いなことにエチオピア軍は自滅して撤退したが、このエチオピアがのちのち、マッカで迫害されたムスリムを保護し、ムハンマドの信仰を支持する立場になるというのは、どういう歴史の巡り合わせか。

 やがて祖父アブドルムッタリブも他界する。その後ハーシム家の新しい家長となったのが、ムハンマドには伯父にあたるアブー・ターリブ、そして彼が、ムハンマドの新しい保護者となった。当時のアラブ社会において、誰がその者の保護者であるか、また、保護者がいるかいないかは、生き死にに関わる重要な問題だった。部族の長が部族の一員を保護するということは、その者の安全を保障するということになる。クルアーンの項に記した通り、沙漠のベドウィンに課された掟、「血の復讐」の原理において、万が一にもムハンマドが他部族から危害を加えられるようなことになれば、部族の者はその名誉にかけて復讐をしなければならない。

 その覚悟と、アラブ特有の部族の誇りが、その後クライシュ族から村八分にされながらも頑としてムハンマドを護り通した、アブー・ターリブの姿勢を支えた。

 このように、祖父アブドルムッタリブには、彼の子どもたち以上に可愛がられ、伯父アブー・ターリブに最後まで保護されたムハンマドも、父親の顔を知らず、里子に出されていたため母親の温もりを知らぬまま孤児となった心の痛手に、激しくさいなまれたのだろう。クルアーンには、孤児を大切にしないマッカの富豪たちを非難する句や、親なし子をテーマにした章句が散見される。

否、否、汝らは孤児を尊ぶことなし/互いに励まして貧者を養うこともなし。/否むしろ、彼らの遺産を食いつぶし/浅間しくも貪婪のかぎりをつくすのみ──クルアーン第89章18-21節

また彼らは孤児に関して、汝に問うであろう。言え、「彼ら(孤児)のためによく計らうことはよいことである。彼らと親しく付き合う時は、彼らは汝らの兄弟(として扱うこと)」──クルアーン「雄牛章」第220節

「ほら、あそこをアブド・ル・ムッタリブ一族の自称預言者が通る」

 天啓を受け、布教をはじめたムハンマドを、当初マッカのクライシュ族は、このように冷やかして笑っていた。が、まだこのころには彼に悪意は抱いておらず、むしろ彼の無茶ぶりを、微笑ましく見守っている感さえあったという。しかしながら彼の説くアッラーの教えとは、よくよく聞けば、自分たちクライシュ族をこきおろすような言葉ばかり。そのことに気づき始めたクライシュ族が、ムハンマドに対して露骨に敵意を抱くようになるまで、さほど時間はかからなかった。このあたりの経緯についてはクルアーンの「マッカ期とメディナ期」で簡単にではあるが触れているため、繰り返しての記述は避ける。

 ヒジュラに至るまでの約13年間で、ムハンマドが得た信者の数は、最初の三年(秘密布教期)で約30人、あとの十年で約200人と少ないが、その中でクライシュ族の迫害により命を落とした者は少なくはない。また、迫害を逃れてエチオピアに避難した者もおり、クライシュ族はエチオピアに対して亡命者の返還を要求したが、マッカとは良好な商業関係を結んでいたエチオピアも、その点に関してはクライシュ族の要求に応じなかった。

●キリスト教国エチオピア
象の年、マッカに攻め入ったエチオピアも、やがてマッカと交易をはじめる。キリスト教国としてマッカからの亡命者を受け入れたこの国の国王は、ムハンマドの宗教がどのようなものかを彼らに問うた。亡命者たちが聖母マリアについての美しい朗誦をして見せたため、国王は満足し、その後も彼らに協力したという。

 その後もあの手この手でムハンマドとその信者を弾圧してかかるクライシュ族は、当然、ハーシム家のアブー・ターリブにも苦情を申し出る。お前のところの甥っ子を、さっさと離縁してしまえ。さもなくば経済的制裁を加えるぞと。

 幾たびも窮地に立たされたアブー・ターリブだったが、けしてムハンマドを離縁することはしなかった。同時にクライシュ族の誇りにかけて、多神教であることもやめなかった。どんなにムハンマドが一神教を説こうとも、彼を守りこそすれ、彼の宗教には荷担しない。この切り分けを、ムハンマドはどのように感じ、受け取っていたのか。残念ながらそれをここに記すための参考文書には、まだ巡り会わない。

 布教以前、ムハンマドは、飢饉によって経済難に陥ったアブー・ターリブから、その子どもアリーを引き取り、育てている。その後ハーシム家は没落への途をたどり、回復の兆しを見ないまま、クライシュ族からの経済制裁を加えられ、食うや食わずの生活を強いられた。それでもムハンマドの保護者として、その義務を全うしたアブー・ターリブは、西暦619年頃に死亡。同じ年、ムハンマドの最初の妻ハディージャも他界する。ムハンマドが、その最大の支持者二人を一気に失ったこの年を、イスラームでは「悲しみの年」と呼んでいる。

ヤスリブ

 二人の死を受けて、ムハンマドは、メディナ(ヤスリブ)への移住を決意する。伯父のアブー・ターリブが亡くなった以上、猛り狂うクライシュ族からムハンマドを守れる者は、もういない。身の危険が迫っていた。

 マッカ期のムハンマドは、他の地域でも信者獲得に努めていたが、なかなかうまくいかなかった。その中でヤスリブの町では布教が成功し、主要部族の長が次々とイスラームに入信した。部族間抗争が絶えず、一旦抗争が始まるとなかなか終わらせることのできなかった彼らは、調停者としてのムハンマドを、そして新しい秩序を、イスラームに求めていた。

 彼らに招かれたムハンマドは、移住後その地に小さな国家を作りあげ、メディナ憲章を掲げて先住民のユダヤ人らと協定を結ぶ。

これは預言者ムハンマドの、クライシュ族出身者とヤスリブ在住の信徒及びムスリムたち、ならびに彼らに従って、彼らと提携し共に戦う者たちの関係を律する文書である。──メディナ憲章第1条(全47条)

 メディナ憲章とは、ユダヤ教との共存による安全保障宣言であり、イスラーム共同体の理念と原理が、ここに打ち立てられたのだった。

 しかし、いざ親しく付き合ってみると、ユダヤ人もキリスト教徒も、その実態は狡猾で奸智にたけ、実生活におけるあくどさは、神をも愚弄するほどだった。かくしてイスラームの民は、移住先のヤスリブにおいても向かうところ敵だらけという四面楚歌の状態に、早くも陥ったのである。

無私無欲

 一方、キリスト教徒にとってみれば、ムハンマドほど腹の立つ男もいなかった。あまりに腹が立ったから、後世、ダンテら中世のキリスト教徒は、以下のような方法でムハンマドを貶め、溜飲をさげているほどだ。

詩人ダンテはマホメットを地獄の第八圏の第九嚢に堕在させている。ここは世界に不和論争、異端を導き入れた重罪人の責めさいなまれるところ。マホメットは顔から尻まで真二つに引き裂かれ見るも無惨な有様で我と我が胸をずたずたに引きちぎっている。──井筒俊彦マホメット」p18

 いささか滑稽とも捉えられる仕打ちだが、それほどムハンマドという男は、キリスト教徒にとってはとにかく「むかつく」存在だった。

むかつく理由1:私心にあらず

 イスラームの特徴として、よく引き合いに出されるのが一夫多妻制だろう。ムハンマドはその生涯に11人の妻を持ち、一番多い時点で9人の女性と結婚していたが、その多くは寡婦、または離婚者で、彼女たちが暮らしに困らないようにという配慮あってのことだった。戦死者の寡婦、孤児の救済は社会的・政治的問題でもあり、クルアーンにも以下のように記されている。

汝らが孤児に対し、公正にしてやれそうもないならば、汝らがよいと思う二人、三人または四人を娶るがよい。──クルアーン「婦人章」第3節

 これがイスラーム法における、「一人の男性が四人まで妻を持てる」ことの根拠となる。ただしこの法はどちらかといえば、それまでのアラビア半島における奔放な多妻制度をむしろ制限した法ともいえ、クルアーンでは、

だが、公正にしてやれそうにないなら、ただ一人だけ(娶るがよい)

 とも言っている。要するに、複数の妻を平等に扱う力量がないなら一人にしておけという戒めであり、イスラーム世界では、一般的には一夫一婦が常態である。

 話がやや逸れたようだが、つまりそういう事情があっての11人の妻であり、指導者として成功したムハンマドが権力と色とに溺れた結果では、けしてなかった。

 しかしこの事実は、禁欲主義のキリスト教徒にとっては不道徳きわまりなく許し難く、攻撃するにうってつけの材料でもある。「この色好みが。神の使徒とは聞いて呆れる」とムハンマドをあざ笑った。実際、彼らにしてみれば、なぜ一夫多妻が許されるのか、また、なぜそれでうまくいき、ムハンマドは変わらず人々の尊敬を集めるのかが、うらやましくも理解に苦しんだ点だったろう。

 そしてイスラーム側としても、神の使徒ムハンマドを「好色」とまで言われては、もはや立場が危うくなる。ムハンマドは彼らとの妥協点を模索することを放棄して、正面切って宣戦布告することとなる。

●ハディージャ
アブー・ターリブと並んでムハンマドの最大の支持者であったと言われる、その最初の妻ハディージャは、ムハンマドより十歳以上年上だった。やり手の商売人だった彼女はムハンマドの誠実さを見込んで自分から求婚。資産家で年上の女性から手取り足取り結婚生活のいろはを教え込まれたムハンマドは、充実した毎日の果て、深く瞑想に耽る日々を過ごす時間も与えられ、その瞑想の日々が天使ガブリエルの降臨を招いた。ハディージャの死後、何番目かに娶った幼な妻アーイシャに、ムハンマドは常日頃から、ハディージャがいかに優れた妻であったかをとくとくと話して聞かせたので、それだけは我慢ならなかったとのアーイシャの後日談が残っている。
●天使ガブリエル
アラビア語ではジブリールというこの天使は、イエス・キリストの生誕を聖母マリアに告げる「受胎告知」などを行ったことから、伝令と通信の守護者と見なされることもある。そのガブリエルが、瞑想に耽るムハンマドのもとに突如降り立つ。「誦め!」とムハンマドに命じた言葉はクルアーンの最初の章句として有名だが、その威圧的な現象に、なにが起きたのかわからないまま震えるばかりのムハンマドは、妻ハディージャの従兄弟でありキリスト教徒であったワラカから、それは大天使の降臨に違いないとの確証を得た。

むかつく理由2:とことん謙虚

人はよく、メディナに遷ってからマホメットはすっかりその政治家としての本性を暴露したと言う。淳朴で真摯な宗教人はどこかへ消え失せて、狡猾な抜け目ない権謀術数の人になりきってしまった、と。しかしそれをもし非難のつもりで言うのなら間違っている。マホメットは始めから政治家だったのだ。と言って悪ければ、政治家でもあったのだ。──井筒俊彦マホメット」p101

 イスラームは、ユダヤ教とキリスト教と、どこが違っていて、どこが共通するのだろう。その点が、信徒でない人間にとってはピンときにくい悩みどころだ。

 クルアーンの項で少しは触れたが、つまりアッラーとは、ユダヤ教にとってもキリスト教にとっても共通する唯一神であり、ルーツはまったく同じであり、時代ごと、地域ごとに違う預言者が現れたというだけの話であり、その最後の預言者がムハンマドだ、というのがイスラームの主張である。

 主張するのは勝手だが、ユダヤ教やキリスト教が確立した600年もあとにそんなことを言われても、ユダヤキリストにとっては「後出しじゃんけん」をされたような不快感しか残らない。アラビアの荒野に突如現れ、自分たちの宗教に難癖をつけるだけつけて好き勝手にいじり倒したあげく、ムハンマドが最後の使徒だからもうこれ以上の経典は生まれないとか貴様何様? とでもいう感じか。

 しかもムハンマドは、あくまで低姿勢である。イエスを許さなかったユダヤを認め、キリスト教徒をも取り入れようと、「ムハンマドの出現はイエスが預言していた」として親縁関係を保つ努力さえ行っていた。

 それがますます気に入らない。どうせならきっぱりと反目しあう宗教として、いっさいの否定をされたほうが、ユダヤキリストにとってはまだ都合がいいものを、わざわざ弟分としてすり寄ってきて、変に機嫌取りをされたところで、下心が見え見えだから、とにかくうざい。かくなる上は凄絶なるいやがらせ大作戦と、それで相手がひるまなければ、最後には武力にものを言わせるしかない。

 イスラーム側においても、歩み寄ろうとすればするほど頑なになっていくユダヤキリストの実態を見るにつれ、彼らの愚鈍さと浅ましさに絶望する。もはや決然と袂を分かつべきだと彼らに絶縁状を叩きつけた。それがキブラの変更であり、それまでは礼拝時の祈祷は聖地エルサレムに向けていたその方向を、マッカの神殿へと、文字通り、180度転換した。

 まだ、マッカ征服など夢見ることもできなかった時期の話だ。

むかつく理由3:その若さ

 ムハンマドの示した終末観はあまりに露骨で、現代の我々から見ればかえって引いてしまいそうな描写だが、目に見えないものは信じないという沙漠のベドウィンの心に強く訴えかけるには、これくらい強烈な世界を描いて見せる必要があった。


打撲! 何ごとぞ打撲とは?

打撲とは何ぞやと汝に知らするものは何ぞや?

人々あたかも群れ飛ぶ蟻のごとく吹き散らさるる日。

山々あたかも毟り取られし染め綿のごとくなる日。

その秤重く下る者には快き来生あるべし

その秤重く上る者は深淵を棲家として与えられるべし。

深淵とは何ぞやと汝に知らするものは何ぞや?

そは炎々と燃えさかる劫火なり。

         ──クルアーン第101章「打撲」井筒俊彦訳


 宗教に限らず、なにかを成し遂げようとする者には、こうあるべきだという明確なビジョンが見えている。ムハンマドには、以上のような世界がありありとその目に浮かんでいたのだろう。だから地獄に堕ちたくなければ、神の導きのままに正しい行いをしなければならない、そして人間には天使が必ず付き添っていて、その者の行いを細大漏らさず記録していると説く。

知らずや汝らの頭上には記録天使ありて/正しく汝らの所業を記録しつつあるを──クルアーン第82章「烈罅」

 しかしこのように暗い終末的な悲観論ばかり唱えていては、メディナの土地で新しい帝国を築くことは到底できない。そうしてクルアーンは徐々にその姿を律法へと変え、人々に導きの手を差し伸べていくようになる。

 だがその根底には、常にムハンマド自身の描く「かくあるべき世界」がある。その激しさ、まっすぐさ、妥協を許さぬ厳格さは、ある意味若さと似通っていて、老熟した宗教には、すでに必要のないものだ。600年以上の歴史を持つユダヤ教やキリスト教が、どこかに置き忘れてきた情熱と純粋さが、ムハンマドには充ち満ちていたのだろう。

 そして、そんなムハンマドが行き当たりばったりに口にした啓示の言葉を集めたものがクルアーンである。その内容にストーリー性はなく、必要に応じて紡ぎ出された神の言葉に連続的な因果関係はない。よってその教義から体系を探るのは容易ではなく、その点もイスラームがわかりにくい要因である。

 ただ、そのわかりにくさこそが、今でも「若さ」を保つ要因ともなっているのだと仮定すれば、現在イスラームの信徒が地球人口の約五分の一を占める数に膨らんでいるという事実との間に、なんらかの関連性を見出せるのではないかとの妄想は尽きない。


 いずれにせよ、ムハンマドが無私無欲の人であったことは、誰もが認める評価だろう。血筋は良いが弱小で貧しい一族に生まれた彼は、少年時代には牧畜の仕事などもしていた。当時「アミーン(誠実な者、正直者)」とあだ名されていた彼は、大人になっても使徒となっても、自分を見失うことなく、アミーンの心で困難にも立ち向かった。

アッラー・アクバル!

 アッラー・アクバル──神は偉大なり

 有名なこの文句の初出は西暦630年。八年ぶりに聖地マッカに入城したムハンマドは、身を清め、カアバ聖殿に赴いて、

「アッラー・アクバル!」

 大声でこう唱えた。聖殿を取り巻いていた軍隊も一斉に唱和し、天地をも震わすほどの大合唱となったという。その後ムハンマドはカアバに祀られていた数百の偶像を叩き壊す。その破片のただ中に立ち、信徒らに向けて勝利宣言をするのである。

「今や異教時代は完全に終わりを告げた。従って、異教時代の一切の『血』の負目も貸借関係も、その他諸般の権利義務も今や全く清算されてしまったのである。また同様に、一切の階級的特権も消滅した。地位と血筋を誇ることはもはや何人にも許されない。諸君は全てアダムの後裔として平等であって、もし諸君の間に優劣の差があるとすれば、それは敬神の念の深さにのみ依って決まるのである」

 なんという晴れやかな場面、なんと輝かしい一瞬であることか。八年前、追われるようにして出てきた故郷への凱旋、そして我らが宗教は勝利した。この聖殿でアッラー・アクバルと唱えることのできる意味は、全アラブを支配することとほぼ同義だ。アラビア全土から次々に使者が訪れ、新しい王者に恭順の意を表した。この晴れがましい日にあっても、ムハンマドの胸に去来したのは過去への感傷などではなかったろう。マッカを手中におさめた彼には、まだ新生国家の基礎固めという重要な仕事が残っている。政治家であるムハンマドは、必要に応じて剣を取る。クルアーンにも「戦闘許可の節」がある。そうして掴んだ栄光こそが、今日という勝利の日だったのだから。

 ただし、ここでいう「戦闘」は「キタール」であり、世に言われる「ジハード」という語句が本来持つ意味とは、性質の違うものであることに注目したい。

剣のジハード

 ジハードの語源はアラビア語で「ある目標をめざした奮闘、努力」を意味する。クルアーンには、さまざまな場面で「ジハード」という言葉が登場するが、その意味合いはそれぞれ微妙にニュアンスが違う。たとえば

信仰のために奮闘努力する者は、自らのために努力しているのである──クルアーン「蜘蛛章」6節

 以上では「奮闘努力する」のところが「ジハードする」と書かれており、これでは具体的にどう努力奮闘するのか分からない。

われ(アッラー)は人間に両親への孝行を命じた。しかし、両親が汝に対して、汝には正体がしれないもの(偶像)を我と並べたてるよう努力するならば、それに従ってはならない──クルアーン「蜘蛛章」8節

 以上では「両親が〜努力する」のところが「両親が〜ジハードする」と書かれている。この場合には、ジハードするという言葉の意味に、少なくとも「戦闘」は含まれないと知ることができるが、いずれにしても分かりにくい。

 ジハードとは、心の悪と戦う「内面のジハード」、社会的善行を行い、公正のために努力する「社会的ジハード」があり、時の流れにともなって、その努力奮闘の中に「戦闘(キタール)」という行為も含まれるようになった。つまりジハードの中で戦闘が含まれる部分だけを「剣のジハード」と呼ぶのであるが、それもヒジュラ以降のことであり、マッカ期のクルアーンでは、ジハードとは剣を持って戦うことではなかった。

 試みに『ジハード=聖戦』という印象から逆説的に論ずれば、聖戦の「戦」には、「自分との闘い」や「困難と闘う」などの意も含まれてしかるべきだと言えるだろう。

メディナの攻防

 アッラーから「戦闘許可」の啓示を受けたムハンマドは(クルアーン「マッカ期とメディナ期」参照)、積極的にクライシュ族に戦いを仕掛けていった。移住先のメディナではこれといった生業がなく、ムスリムを食べさせる手段がない。彼らを飢え死にさせるわけにはいかないムハンマドは、遊牧民族の得意芸、沙漠での略奪──隊商(キャラバン)を襲って荷物を奪う──を決行した。いくつかの小競り合いを繰り返すも、事態はいっこうに良くならない。そんな中ムハンマドは、マッカの大きな隊商がシリアから戻ってくるとの情報を得て、沙漠の民の掟である「神の休戦月」であったにもかかわらず、これを利用して敵の不意を打ち、戦利品を獲得しようと計画を立てた。

 ラクダ千頭のキャラバンだ。もしこの計画が実行されれば、マッカは間違いなく報復してくる。それは百も承知の作戦は、予想以上に早く情報を聞きつけたマッカ軍の北上によって早くも大きな岐路に立たされた。

 その数千名。前進か退却か。当初はキャラバン襲撃しか念頭になかったムハンマドは、マッカ軍との衝突は避けられないと見て、ムスリムたちに意見を求めた。マッカ期からの信徒に、命を惜しむ者はいない。だが協定を結んだばかりのメディナの援助者に、戦いを強いる権利はない。

 そのときメディナの援助者を代表して、サアド・イブン・ムアーズが立ち上がり、こう言ったという。

われらはあなたを信じ、あなたがもたらしたものを真実と証言し、その上でわれらの誓いを与え、忠誠を誓いました。アッラーの信徒よ、お望みのままに進んでください。我らはともにありましょう。あなたを真理とともに遣わせた方に誓って、たとえこの海を渡ろうとあなたが飛びこむならば、われらも共に飛びこみましょう。誰一人、我らの中で遅れる者はいないでしょう。明日敵がわれらと出会うことを嫌う者もいません。我らは戦いによく耐える者であり、敵と相まみえる時には頼りがいのある者たちです。おそらくアッラーは、あなたの目が愛でることを、我らからお見せになるでしょう。それゆえアッラーの祝福によって、我らとともにお進みください──イブン・ヒシャーム「預言者伝」

 そうしてムハンマドは、バドルの戦い、ウフドの戦い、塹壕の戦いなどの数々の戦いを重ねる中で、メディナ先住部族の裏切りやユダヤの抵抗といった予期せぬ事態に遭いながらも、軍事的な危機を乗り越えて、メディナでの国家草創期の困難を克服した。

ジハードの理念

 なせムスリムは、命を惜しまず戦ったのだろう。アッラーに尽くすため? ムハンマドを命に代えても守るため?

 本当のところは分からないが、少なくともこの時代、ムハンマドと共に生きたムスリムは、戦おうが戦うまいが、生きるか死ぬかのギリギリの瀬戸際に立たされていたのは間違いない。飢えて死ぬか戦って死ぬかの違いだけだ。ならば戦った方がいい。もちろんその大前提としての信仰はある。しかしこの閉塞した状況で、自分たちが生き延びていくためには、敵という敵を破って支配下に置く以外に手段はない。もっと言えば、ムハンマドについていくより他に途はない。

 そのへんをアレンジして、ジハードの理念を「己を擲つ」「すべてをささげ、身を尽くす」「アッラーのために命を落とす者は殉教者である」と後世に伝えるのは宗教的なやり方だろうが、そこに真実は、果たしてあるのか。

 答えの出ない問いかけには、いつだってこの台詞が返ってくる。

「すべてはアッラーの御心のままに」


 ところでイスラームは社会の不条理を解き明かす宗教として端を発し、公正と弱者救済を訴えるその主張は、まっさきに弱者たちからの共感を得た。ムスリムに課せられる宗教的義務行為、テンプレート:rb(信仰告白,シャハーグ)テンプレート:rb(礼拝,サラー)テンプレート:rb(喜捨,ザカート)テンプレート:rb(断食,サウム)テンプレート:rb(巡礼,ハッジ)、この五行のうち、「喜捨」が弱者救済を象徴しており、持つ者は持たざる者に財産の一部を喜捨する義務があり、その配分は細かく決められている。断食も、もともとは、貧しくて食べ物がない同胞のために、その苦しみを共有し理解することが目的で定められ、断食月の終わりには貧者のための「断食明けの喜捨」が義務づけられている。

 こう書くと簡単に聞こえるが、たとえば日本人が、仕事などでイスラーム社会に滞在中、たまたま喜捨の場面に出くわしたとする。すると、持てる者から喜捨された貧者は、礼も言わずに堂々たる態度で立ち去っていくのである。彼らは喜捨されることを「当然の権利」として行使する。「我々に喜捨することで、持てる者は救われる」と本気で思っているからだ。それは文化や風習の違いにすぎないとわかっていても、日本人は彼らの態度に驚きと、不快感すら覚えるかもしれない。

 ジハードについても、同じようなアレルギー反応を起こす可能性は充分にある。

 アッラーを信仰する者は、完全帰依を宣言する。全存在をアッラーに委ねるのであるから、その宗教を守るためなら命が惜しかろうはずもない。その理念は、信徒にのみある。

全ての宗教がただ一つアッラーの宗教となるときまで敵と戦え

 とクルアーンに記されている以上、彼らは敵を見つけ次第、断固として戦わねばならない。

 その感覚を、非イスラームである人間が、本当に理解するのは所詮無理な話なのだろう。ただ理解しようと努めることはできる。彼らが命に代えても守らなければならないものを、知らぬ間に、傷つけたり踏みにじったりしないで済むよう。


 マッカを征服したムハンマドは、その約二年後にこの世を去った。イスラームはその後、一大帝国を築きあげる。帝国自体は1258年モンゴル軍のイラク襲来をきっかけに滅んだが、イスラーム社会は絶えることなく、ムハンマドは永遠にムスリムの中に生き続ける。

 彼の思い描いた終末の日、アッラーが人類を裁きに来る、そのときまで。

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