イスラーム原理主義の「道しるべ」

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イスラーム原理主義の「道しるべ」

 アラビア語で『道しるべ』と題されたこの本は、1964年にエジプトで発刊されたが、「近代国家の否定につながる」との理由からただちに発禁処分となり、大部分が政府によって焼却されてしまった。さらに、著者のクトゥブは、イスラーム原理主の大衆団体「ムスリム同胞団」のリーダーとして当時のナセル政権によって死刑が宣告され、二年後に刑が執行された。

 しかし、わずかに残された『道しるべ』は、国外に持ち出され、クトゥブの代表作として、英語やトルコ語などに翻訳されてきた。インターネットが普及されてからは、アラビア語の原文が世界中で閲覧できるようになり、「イスラームがジャーヒリーヤか」を迫る「クトゥブ主義」は、さらに多くのイスラーム教徒の心をつかむようになった。(岡島 稔・座喜 純によるまえがきより)

サイイド・クトゥブ

1906年エジプト・アシユート県に生まれる。33年ダーラル・ウルムを卒業、教育省に勤務、48‐50年アメリカ留学。帰国直後に教育省を辞しムスリム同胞団に入り、機関誌を編集する。54年ナセル暗殺未遂事件に連座して投獄され、獄中で執筆活動を続ける。64年一時釈放されるが、「道しるべ」が国家反逆罪とされ死刑判決を受け、66年刑死

訳・解説者
岡島 稔・座喜 純

これは信仰の書ではない。政治的イデオロギーとしてのイスラーム主義、すなわち宗教原理主義の本である。だからこそ、ムスリムであろうと、非ムスリムであろうと、『道しるべ』を読んで衝撃を受けなかった者はいない。──岡島 稔

サイイド・クトゥブは生涯をかけてすべての人を地獄から救う最善の方法を追及し続けた。そのため、現世での冨や栄誉、繁栄といったものに対する関心も執着も、クトゥブには微塵も存在しなかった。──座喜 純

用語や人名

ジャーヒリーヤ (クルアーンの「イスラーム発祥」「ジャーヒリーヤ」参照)
一般的にはイスラーム発生以前のアラブ社会のことを指すが、サイイド・クトゥブは、地域と時代を問わず、真の神アッラーを知らない非イスラーム社会はすべてジャーヒリーヤ(または現代のジャーヒリーヤ)だと主張する。

メモ

  • イスラーム以外の西洋的価値観に支配された状態を「現代のジャーヒリーヤ」とし、「イスラームか現代のジャーヒリーヤか」の論が展開された本書は、「9.11」の理論的指導書と見なされた。
  • 「アシュハド・アンナ・ラー・イラーハ・イッラッラー、ワ・アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー」とは、「アッラー以外に崇拝すべき対象はない。ムハンマドはアッラーの使徒なり」という意味の信仰告白。イスラームに入信するには二人の証人の前でこの信仰告白を陳述するだけでいい。本書ではこの言葉が繰り返し使用されている。
  • かろうじて生命を維持できる極限状態にあるアラブの沙漠地帯では、略奪は盗賊行為ではなく経済活動であった。経済活動である以上、ルール、国際法を順守しなければならない。「目には目を、歯には歯を、血には血を」の国際法は、復讐や報復を正当化するものではなく、同害法、返応法によって報復を制限する掟である。

書誌情報

第三書館 2008年8月発行 293ページ

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