アレイスター・クロウリー

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アレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)(1875-1947)

 本名はエドワード・アレクサンダー・クロウリー(Edward Alexander Crowley)。魔術名はOmicron-Upsilon Mu-Eta(OU ME/O.M.)、Perdurabo(P.)、Master Therion(M.T.)、Baphomet(B.)。

 19世紀末から20世紀にかけての神秘家、登山家。イギリス出身。

 黄金の夜明け団で頭角を現し、団を追放されると世界を放浪。インドでヨガを学ぶ。

 この放浪時代にヒマラヤ山脈のカラコルム、K2にも挑戦し、世界記録を更新した。

 1904年、エジプトで法の書を著わす。彼はこれを自身の守護天使にしてホルスの遣い、“秘密の首領”エイワスから授かったものだと主張する。また、自身でもその難解さを認めている。

 この頃、マクレガー・メイザースと仲たがいする。

 1907年、銀の星団(Argenteum Astrum/A.A.)を創設。機関紙で黄金の夜明け団の儀式を公開して、メイザースと裁判沙汰になる。

 1912年、東方テンプル騎士団(Ordo Templi Orientis/O.T.O.)の英国支部長に任じられ、究極秘法伝授者協会(Mysteria Mystica Maxima/M.M.M.)を創設。性魔術に感心を示し、様々な実験を行う。

 1914年、渡米するが第一次世界大戦が勃発。1919年まで米国で暮らし、一旦英国に帰国した後イタリアのシチリア島へ渡る。

 1920年、クロウリーは法の書の記述をもとに、人が自由意志をもって神となることを主張するテレマ主義(テレマとはギリシア語で意志、望みの意)の修道院をシチリア島に創設。

 1923年、テレマ修道院で起こった弟子の死亡事故などの責任問題で国外退去処分を受け、欧州、北アフリカを放浪する。英国の大衆紙がクロウリー批判を行ったのもこの頃。

 1925年、O.T.O.の団長に就任する。

 1929年、当時在住していたフランスで国外退去処分を受け、英国へ帰国。

 1940年頃からタロットの研究に取り組む。

 1947年、英国のヘイスティングスで死去。

 1969年、クロウリーが考案したとされるトート・タローが出版される。

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